母さんがよく聴いていたレコードがありました。

自身は昭和32カテゴリー出生ですので、来季で還暦を迎えます。本当に暇は非情な存在かという体感が一番凄いのです。どうしてもときの経つのは早過ぎます。一方不思議なもので新鮮な記憶は事あるごとにのぼり現われて来る。色々な風景でその時経験したことや、情景や台詞なども浮かんでくる。者は不思議なアニマルですなと思います。さて、私の幼少からの生態は俗にいう母子所帯でした。人間三人の兄弟はそれが当たり前だと思って育った気がします。思春期から青年期にわたって実に父皆無という事が気になる時もありましたが、基本的には何も変わらなかったと言っても良いと今は思っています。私の母親には十人の兄弟がいました。母親が近しくした同年頃のいとこもいました。その母親のいとこに、常に酒臭い豪傑風のオッサンがいたのです。昔は色々親族が集まっていたものです。そのオッサンはいよいよそんな場もお酒を飲んで大きな分厚いサウンドで話していました。母親から話を聞くと、陸軍士官学院卒で、教官を勉め、校長職を何度か先輩だそうです。人間三輩兄弟にとっては声の高いひどいオッサンでした。そのオッサンは私たちの見かけを見付けると必ず次の台詞を口にするのでした。「お前たちの母ちゃんは、嫌なことがあってもちっとも気にしない妻だった。ですからお前たちはそうやって育つことができたんだぞ」という。いかに酔っぱらって、ろれつが回らない時も、このように話すのでした。現下思えば、こういう台詞は母親への一つのコピーアンドペーストだったのかも知れません。母親が動機付けあって父という離別したものの、愚痴内こぼさなかったのを知っていたのかも知れません。母親の人材はそういう人材だ。小さい例年を同時に過ごしたいというこういう考えに叔父は奥深い力を持っていたのではないかとこの頃思えて来たのです。私たちの日々をバッチリ見守って来てくれたのかも知れません。高齢になった母親を診ていらっしゃる姉が昔のモノクロの映像を取り出して言いました。これを映像屋氏にとって行って引き伸ばして買うことにしたといった。その映像に写る母親は、女学校の制服だ。恐らく17歳ごろの映像だ。父母という兄弟、そうしていとこが写っていらっしゃる。一番後ろの左手写っているのがこういう叔父だ。大学生帽ものの帽子に詰襟だ。母親は年老いてからは昔の対談を多くするようになりました。事柄は人材だと感じました。九十歳になっても小学生の五年生で習い歌った歌をワンポイントもたがわず歌います。その母親がこんなことを話したことがあるのです。太一は光子と結婚したけど、その前に自身に何かと声をかけていたんだといった。叔父は母親の実の次女という結婚したのです。いとこ同士の結婚式もこの時代にはめずらしくなかったのでしょう。叔父において母親は片想いじゃなかったのかというバーチャルまで湧き上がってくる。叔父が人間に繰り返しヤツたあの台詞は人間が想うによって深かったのかも知れません。話は変わりますが、母親があるシングルレコードを買ったことがあります。「勿忘草を者へ」というEPバージョンでした。静かな通路でステレオからの歌を聞きながら一緒に口ずさんでいました。母親の心には誰の形相が浮かんでいたのでしょうか。歌の市場に入っていくことが歓びだったのでしょうか。他人には見えない母親の暇だったのではないでしょうか。http://merrow.eek.jp/